ものすごく抽象的な苦しさを、うまく表現できなかった話です。
【昇華できない閉塞感】
この間、久しぶりに、家の裏通りを歩いてみたんですが。
ふと見上げた空が、電線で格子状に区切られていました。
いつも通る表の道は、真ん中に緩やかな川が流れていて、周りには田んぼや畑や学校、公共施設が連なっています。
ひとつひとつの面積が広いものばかりなので、視界を遮るものが少なく、
目線をついと上げるだけで、雲の形や山の色を、特に意識しなくても眺めることができるんです。
ところが、建ち並ぶ家に囲まれた裏通りの空は、ひどく狭く見えました。
暮らしを便利にしてくれているはずの電線が、まるで世界を絡めとる檻のようで。
お天気が崩れ始めた日だったので、鉛色の空から、ずしりと閉塞感が降ってくるような息苦しさで。
立ち止まって、ゆっくりと息を吸うと、雨の香りがしました。
体の中にじんわりと広がる空気は、私がいつも空を見上げる表通りと、同じ匂いでした。
今ここからは見えないけれども、世界は正しく広がっている。
大きな世界に対して、私は正しくちっぽけな人間である。
自分と世界の大きさを、心で理解したとき、するりと息ができるようになりました。
私はどうやら、ここで生きていてもいいらしいと、安堵したのですが…。
この息がつまるような閉塞感を、どうしてもうまく表現できなかったんです。
こうしてそのままに語ることはできるのだけれど、noteで書いている詩やエッセイのような作品にはできない。
感じた重苦しさを凝縮して抽出するような、結晶化させるような、昇華の作業がどうしてもうまくいかなかったんですね。
理由を考えてみて「私がいま伝えたいものじゃないから」だろうな、と思いました。
苦しさ成分を、ドリップコーヒーみたいに取り出して、作品として定着させてしまうと、より苦しくなるから。
私が伝えたいのは、苦しくなった感情そのものや、苦しさを感じることの問題提起ではなくて、
それも含めたところから生まれてくる、温かさや強さや美しさのようなものだから。
ぎゅっと結晶にするのではなく、つらつらと語ったり、長編の心理描写の一部として使ったり、
ゆるやかにまろやかに織り込んでいく表現のほうが合う、そんな感覚もあるんだなあって思いました。
改めて、自分が伝えたいものが何なのかを考えさせられた出来事でした。