【noteエッセイ】拝啓、いつだって本当の私を探していた私へ

「本当の私は、こんなんじゃない」。

それは、子どもの頃の私にとって、お守りの言葉でしたね。

だめな子だと叱られていたとき、友達の輪に入れずぽつんと佇んでいたとき。

何も言い返せず悔しかったとき、理不尽さに負けそうになったとき。

自分を守り、奮い立たせるための、鎧のような言葉だった、はずでした。

いつの間にか、言い訳の言葉になっていたと気がついたのは、大人になってからでしょうか。

失敗したとき、認めてもらえないとき。

理解してもらえないとき、納得がいかないとき。

本来なら解決するべき物事に、向き合わなくてすむための隠れ蓑になっていました。

本当の私は、こんなんじゃない。

だけど、どんなだったか、もうわからない。

そうわかった日の絶望は、今でも覚えています。

見つけるためには、分厚くなりすぎた鎧を、脱ぎ捨てるしかなかった。

もしかしたら、中身はすでにからっぽかもしれない、という恐怖を乗り越えて。

だから、おそるおそる剥がしてみたとき、私がまだそこにいてくれて、本当に嬉しかったです。

まっすぐに美しい理想形ではなくても、歪な色と形をしていても、からっぽではなくてよかったと、心から思います。

むき出しの私にそっと触れてみたら、思いのほか柔らかくて、驚きましたね。

ふわふわと形を変えてゆけるもので、何にでもなれそうな気がしました。

私はようやく、今ここにいる私になれました。

それが本当の私かどうかは、どちらでもいいのです。

こうして、ここに存在しているのは真実なのですから。

本当の私を探していた私へ。

何ひとつ纏わずに生きろ、とは思っていません。

子ども時代を生き抜くのは、ある意味では戦争でもありましたものね。

ただ、もしも叶うならば、どこかで一度は脱ぎ捨ててみてほしいのです。

鎧が呪いになる前に。

案外、すぐそばに仲間がいたり、実は立派な盾があったりと、見えていなかったものが見えるかもしれません。

そもそも戦場には立っていなくて、周りには綺麗な花が咲いているかもしれません。

いま私がこうして存在していられるのは、あの頃の私が頑張ってくれたからです。

本当にありがとう。

老婆心ながら、私が私として幸せに生きてゆけることを、未来から祈っています。

かしこ

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