書くことも、語ることも

先日、15分間しゃべろう! と思い立ったとき、話の方向も着地点も、まったく見えませんでした。

先行きが見えない語りというのは、なんて不安なんだろう。

【書くことも、語ることも】

文章だと、その“先行き不安”感がないんですね。

「書きたい中心のこと」と「文章の流れ」は、書き始める時点で、ふんわりと頭の中にあって。

構成の7割ぐらいと、着地点のおおよその範囲は、自分でなんとなくわかるんです。

もちろん、書いている間に変わっていくことも、自分でも予想外の方向に行くこともあります。

でも「書けない」「着地できない」という不安感はないので、どこに向かうのかわからず、途方に暮れるような状態は、ほとんどない。

#日記や作文や感想文に限りますが

#物語はまた別物

学生時代は、規定の原稿用紙の枚数の、前後3文字ぐらいの範囲内で、作文をぴたりと収める特技がありました。

#最近は原稿用紙を使うことがないので

#今はどうだろうな

文章ではできるそれが、語りだとまったくできません!

書き言葉だと地図が見えるのに、話し言葉だと、ガードレールもなく、方角すらわからない感じです。

その場で推敲できるかどうかとか、読み書き語りの慣れとか、そもそもの自身の特性とか、理由はいろいろあるだろうけれど、

音声と文章と両方やってみることで、改めて違いが浮き彫りになって、おもしろいです。

違いを知ったからこそ、わかる魅力があるなあ、と思います。

文章を書くのは、太古の森を探検するみたいな気持ちです。

そこかしこに大きな木々が根を張り、清流が滔々と流れ、木霊が響く。

何もしなくても、すべてが素晴らしい生命に満ちみちている世界を感じられるのですが、

私がまだ知らない、たくさんの美しさが眠っているはずの森です。

それを見つけて、心が震えるような感動を味わいたくて、文章を書くのを楽しんでいます。

声で語るのは、砂漠を冒険するみたいな気持ちです。

どこに何があるのかわからない、何かがあるのかすらわからない、道なき道。

遠くに揺らぐ蜃気楼に一喜一憂しながら、ようやく上りきった砂丘の向こうには、新たな砂漠が広がっているかもしれない。

だけど、緑にあふれたオアシスがあるかもしれない。

その、心がひりひりする感触がたまらなくて、声で語るのを楽しんでいます。

今は、どちらも楽しいなと思うからやっている、それだけなんですけれども。

楽しみ方の種類は、違っているんだと気がつきました。

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