昨日は、小学校の運動会でした。
応援の声が、たくさん飛び交う空間。
最近、気がついたのですが、私は、
「頑張れ」という言葉の力を、怖いものに感じていたようなのです。
【「頑張れ」は素敵な言葉】
うちの娘は、6年前に、学校不適応になりました。
いじめがあった、とかではなく、当時の学校のシステムになじむのが難しかったから。
みんなと同じにしようと、頑張りすぎて、力尽きた。
というのが、いちばん近い状態だったと思います。
私は、それまでに発せられていたであろうSOSを、受け取ることができませんでした。
明るく、楽しそうに過ごしていたから、それほどのつらさを抱えているなんて想像もしなかったし、
進学校でもないので、成績に厳しく言及することはなかったけれど、
娘にはたびたび、
「運動会、頑張れー」
「頑張って宿題終わらせよう!」
「今日も学校、頑張ろー」
などと、気軽に声をかけていました。
娘の体が動かなくなり、学校にいられなくなったとき、
カウンセラーさんから、
「今は、頑張らなくていいよ、って言ってあげてください」
そう言われて初めて、私の軽い一言が、どれほど娘の重荷になっていたかを知ったんです。
もちろん、子どもの感じ方や、親との関係や、環境や、いろんな要因があると思いますが…
当時、娘は言葉の力を強く強く受け取るタイプで、私は“頑張る=正しい姿”のタイプでした。
ものすごい衝撃だったけれど、
だから努力が不要だとか、頑張ることが悪いとか、思ったわけではなくて。
ただ、自分の価値観がひっくり返る出来事だったので、
「私の『頑張れ』が、人を苦しめるかもしれないんだ」
という恐怖に、がっしりと腕をつかまれたまま、今まで過ごしてきました。
今の住まいは、フリースクール等が充実している地域ではないのですが、
そのぶん学校からのサポートがしっかりしていて、
あちこちの学校を回るスクールカウンセラーさんが、
「公立校で、この手厚さはなかなかないですね!」
と言うぐらいの支援があり、娘は学校と共存していくことができています。
そのおかげで「頑張ってみる」「やってみる」と向かうことが増えても、
私はなかなか「うん! 頑張ってね!」とは言えませんでした。
でも。
自分が何かしようとしたときにもらう「頑張れ!」は、嬉しいことなんだとわかるし。
人生、必ず訪れる踏ん張りどころは「頑張る」しかないし。
誰にでも無責任に発していい言葉じゃないけれど、押しつけるべき言葉でもないけれど、
「頑張れ」は、本来、素敵な言葉だったことを思い出しました。
#斎藤一人さんの
#顔晴れが好き
どんな言葉も使い方次第だ、とわかっていたはずなのに、ちょっと怖がりすぎだったなあ。
私は、どうしても、極端に思考が偏りがちになるので、
#白か黒か
#淡色が少ないw
バランスを大事にして、言葉を“ただしく”使える人間でありたいな、と思います。