私は、ごきげんに生きているのだろう。
と、思う。
負の感情が、湧き起こらないわけではない。
悲しいことも、落ち込むことも、苛立つこともある。
それでも、取りたてて気になる問題も、長引くストレスもないし、
辛いことがなかったわけではないだろうが、過去にも特筆するような痛みはない。
なので、いま私は、ごきげんに生きているのだろう。
私が、ごきげんに過ごすためにしている、たったひとつのこと。
それは「ごきげんでいると決める」ことである。
「私はごきげんに生きる人である」という前提を、インストールしている感覚だ。
昔は、周りの人の感情や評価や、自分が置かれた環境に、ふり回されていた。
あの人がこうだから、今こんな状況だから、私は不機嫌で当然だ。
悲しみに沈んで、怒りをぶちまけて当然だ。
そんなふうに、自分の機嫌を、他者に委ねていたのである。
けれど、あるとき。
子どもに苛々と怒りを爆発させていた私は、来客があった瞬間に、すっと感情を引っ込めた。
怒りが消えたわけではないのに、怒るという気持ちと行動を、選ばなかったのだ。
またあるときは、悲しくて泣きたくてたまらなかったのだけれど、
どうしても今ここでは泣きたくなくて、笑顔でしゃべることを選んだ。
そうした経験を重ねて、私は思い知ることになる。
気持ちと行動は、自分で選ぶことができるものなのだと。
ならば、嬉しく楽しく、ごきげんな気持ちを選ぶことも、できるはずだと。
私には「私に選択権がある」と思えることが重要だった。
物事や人に対して湧く感情は、自動的なものだったとしても、
他の誰にも、私の気持ちと行動を、侵害する権利はないのだ。
自分をほめる、愛する、癒やす、感謝する…といった価値観と実践に加えて、
アドラー心理学の“課題の分離”を学んだあたりから、自身の選択権を、より意識できるようになった。
自分自身が選べることに気づいたら、自動的な感情の紐づけを変えることも、選べるようになる。
私が感じるもののすべては、私が選んで、そう感じている。
私が、ごきげんに生きるためにしている、たったひとつのこと。
私は、ごきげんに生きる。
そう決めている。