向き合ったシリーズ、最後は“曖昧さ”です。
#ひとまず最終回
【不登校で向き合ったもの④―曖昧さ―】
私は「わかりやすいが正義!」と公言するくらい、
曖昧なもの、答えがないもの、どっちつかずなものは苦手です。
それについて、とりとめもなく考えるのは、大好き。
だけど、日常生活に、ふわっと抱えたままなのが苦手なのです。
子どもたちが、学校に行けなくなった理由も、わかるようでわからなかった。
いじめではない、友達関係でもない、先生との関係でもない。
勉強でもないし、何かが起こったわけでもない。
雰囲気や空気という、見えないもの。
学校、教室という環境そのもの。
発達特性と敏感さによる、それら外界の刺激の、キャパオーバー。
…と、言われました。
発達障害は、グレーゾーンだそうです。
診断名は、正式にはもらっていません。
支援に当たる方々と相談した結果、
「診断に基づく分類が、本人が望む進学や就職の際に、枷にならないようにしたい。
今はサポート体制ができているから、社会的に必要になったとき、困ったときに診断をもらう」
という形に、落ち着きました。
だけど、学校の先生にも、今のような信頼関係が積み上がる以前は、状態を説明しづらかったし、
親戚やママ友さんに聞かれても、私もうまく答えられなかった。
本人だって、渦中にいるときは、わかるわけがなく。
短絡的であろうとも、一言で説明できる、病名というラベルがあったら、どんなに楽だろう…。
そう思った時期も、ありました。
でも、結果的には、それがよかったんです。
ラベルがなかったから、わかりにくかったけれども、
発達障害の、とか、緘黙症の、という前置きなしで、
“○○ちゃん”というひとつの個性を、みんながいろんな角度から見てくれて、
今、あたりまえに受け入れてくれる、人間関係がある。
もちろん、はっきりと診断がある方が、いい方向に働く場合も、たくさんあります。
ただ、わが家には、これがよかったんだな。と思うだけ。
私自身、ラベルを貼ってしまったら、そうとしか見ない気がするんですよね。
診断名を、悪い意味で、言い訳にしか使わなかったんじゃないかなあ。
理解したつもり、で終わらせてしまう。
そんな人間が語る言葉は、すごく薄っぺらくなる。
曖昧さに相対したまま、抱えて過ごした日々のおかげで、
私の感性と表現は、ずいぶん広がったと思うのです。
“怒り”“ずるい”“不安”“曖昧さ”
どれも、子どもたちが向き合わせてくれた、大切な体験でした。