長男と次男と一緒に、おもちゃ屋さんへ行きました。
ふたりは自分のおこづかいを握りしめて、欲しかったものを探しています。
もうすっかり金額の計算ができる長男は、無事に目的のベイブレードをゲット。
ところが、まだお金の理解が追いついていない次男は、何とおこづかいが足りなかったのです!
欲しいのに買えなくて、泣きそうな次男。
かわいそうだし、足りない何百円かは、親にとってはそこまでの大金ではないけれど…。
いや、お兄ちゃんがちゃんと自分のおこづかいを貯めて買ったのに、弟にだけ出してあげるのは、違う。
悔しくて悲しい思いをする体験も、きっと彼には必要なんだ。
心を鬼にして、次男の気持ちの整理がつくまで待つことに決めました。
すると。
激しく落ち込んでいる弟を見ていた長男が、
「足りん分、出してやるよ」
と言ったのです!
今まで泣きべそだった次男は一転、くしゃくしゃの笑顔になって、兄に抱きついていました。
結果、ふたりとも買えたし、笑顔の帰り道になったけれど…長男の財布は、ほぼ空っぽ。
私と子どもたちの違い
正直なところ、長男を、素直に「すごいな」と思いました。
小学生の私には、自分の財布を空にしてまで、妹に何か買ってあげることなどできません。
断言できます(笑)。
私と妹は、毎月定額のおこづかい制で育ち、それもこづかい帳の記入とぴったり合っていなければ、もらえませんでした。
おもちゃを買ってもらえるのは、誕生日とクリスマスと、お年玉のときだけ。
だから、いつも欲しいものがたくさんあって足りない感覚ばかり抱いていたし、祖父母が特別にくれるおこづかいは、それは嬉しいものでした。
募金をするときには、誰かを助けたい正義感と、お金がなくなる恐怖とに挟まれて、気持ちよくお金を送り出すことなんてできませんでした。
でも、お金ってそういうものだと思っていたんです。
苦しかったりつらかったりした代償に、手に入るものだ、と。
その教育方針しか知らなかった私にとって、旦那さんは衝撃でした。
買い物に行く先で、予算こそ決めるけれど、子どもたちにお菓子やガチャガチャを選ばせてくれたり。
ゲームセンターでも、惜しいときはちょっとだけ金額を上乗せしてくれたり。
義母も、ちょくちょく小銭をくれたり、どこか一緒に行くたびにおもちゃを買ってくれたり…(おかげで、ベイブレードや爆丸のコレクションが充実しているわけですが)。
特に我慢させることもなく、おやつを食べさせたり。
最初は、我慢のきかない子どもになってしまうんじゃないかと、心配していました。
実際に、小学校に上がるまでは3人とも、欲しいものが手に入らないときは、泣いていました。
ガチャガチャやハッピーセットのおもちゃが、飽きられては溜まっていくたび、イライラもしました。
だけど、成長するにつれて、自分の本当に欲しいものしか買わなくなったし。
ちゃんとごはんに差し支えない量のおやつを、自分で選べるようになりました。
おもちゃの取り合いで揉めることも、さほどありません。
私は逆で、「自分のおもちゃ」「自分のお金」という気持ちがとても強かったので、よく妹と喧嘩したし、とにかく物への執着心が強かった。
おもちゃもお菓子もおこづかいも、ありすぎても教育上よくないと思っていたけれど。
もしかして、不満がなくて困っていないから、こだわらずに貸せるし、優しくできるのかもしれない。
お金の前提の違いって、これか!? と思い当たったのです。
シャンパンタワー
育児書で読んだのですが、自分の愛情のコップがいっぱいにならないと、他人に分けてあげることはできないし。
逆に自分が満たされたら、シャンパンタワーのように、周りの人に幸せや優しさを注げるんだ、って。
だから、上の子にたっぷり愛情をあげれば下の子に優しくなるし、お母さんが満たされていれば子どもが幸せになれる。
まったくその通りだと、実感しています。
愛情だけではなくて、物やお金も、そうなのかもしれない。
いくら心持ちの問題とはいえ、自分が生きるか死ぬかの瀬戸際で、最後のパンをあげられる相手って、それこそ我が子ぐらいです。
でも、暮らしに余裕があったら、見知らぬ人でも助けられる。
助けようかな、って思える余裕が生まれる。
自分が満たされていて、「欲しいものは手に入る」体験をしているから、長男は財布を空にして次男におもちゃを買ってあげられるし、長女は千円札を躊躇なく募金箱に入れられるのかもしれません。
我慢ばかりを美徳とせずに、自分も周りも満たされる生き方を、設計していきたいものです。