果しなき流れの果に(小松左京)

ようやく読了の、SF長編!

【果しなき流れの果に(小松左京)】

1973年に書かれた小説です。

プロローグは太古の恐竜時代から、最後の舞台は45世紀という、

とんでもない時空間を、物語とともに移動してきました。

始まりの“現代”は、1960年代なのですが、

まるで今の時代に書かれた本のようだと、難なく感じてしまうのがすごい。

電話の描写ぐらいしか、違和感がないんですよね。

いつでも“今”から、時空の謎が始まるSFは、器の大きいジャンルだな、と思います。

読み応えがあって、おもしろかったです。

現代の肉体からどんどんと、自分の意識が遠くに旅立つような読書。

けれど、この小説は、10代の私だったら、たぶん好まなかっただろうな…とも。

“運命”とか“神”とか“超意識”とか、時空間を超えて理を形づくる絶対者の存在を認める一方で、

それを理解できないままに取り込まれるのが、私は嫌だったのです。

“結局は、決められたとおり”なら、人間の意思は、いったいどこに、何のためにあるのかと。

世界の理を、自分がコントロールできないことが嫌なのではない。

どう生きても道がひとつしかなくて、自分では選べない、という感覚になるのが嫌いでした。

絶対者に挑む者が、空想の中ですら敵わないなら。

ならばなぜ人間に、認識し思考する感情があるのか。

無駄なことではないのか。

そう考えてしまっていたから。

でも今回は、絶対者である超意識の描写までを、自然に受け入れた上で。

絶対者に近づく、不確かな灰色に揺らめく世界より、

何もわからないままでも、目の前の鮮やかな彩りの世界を、胸いっぱいに吸い込んでいたい。

震える感動が、生の実感がある、

その場所に自分の意識を根づかせることを、私は望んでいる。

小松左京さんの筆力ゆえか、自分の感受性の変化か、素直にそう思いました。

宇宙から見れば末端の細胞であり、翻弄されるばかりとも取れる、

“ひとりの人間”であることに、尊い価値を感じている。

絶対者ですら、実は絶対的でなく、変化し続けている存在なのだと理解する。

昔の私にはなかった、不思議な読後感でした。

物理法則の説明を読むのに、すごく頭は使いましたが、おもしろかった!

理系科目は、論文どころか、教科書を開くだけで眠くなる特技の持ち主なので、

作家さんのおかげで、理系の難解さに小説で挑戦できるのは、とても嬉しいことなのです。

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする