【noteエッセイ】そして、私の言葉に出会った。

子どもの頃から、かれこれ30年以上、何かを書いている。

昔は、自分で書いた文章を読み返すのが嫌いだった。

恥ずかしいとか、うまく書けていないとか、いろんな気持ちはあったのだけれど。

何より、自分の書いた文章に、ずっと違和感があったのである。

さかのぼれば10代から20代には、新人賞に応募するための小説も、匿名のブログも、プライベートな日記も書いていた。

国語の作文も得意だった。

規定枚数の原稿用紙の、最後のマスぴったりに文字数を収める、なんて特技もあった。

「すごいね」って言ってもらえたし、書くのは得意だと自覚もしていた。

書くことは、確かに大好きだ。それなのに、自分の作品を好きになれない。

「もう読み返したくもない」そう思ってしまうことが、たまらなく悲しい。

当時の私にとっては、宿題だろうが応募原稿だろうが、書いたら終わり、の文章でしかなかったのだ。

唯一、読み返して嫌じゃなかったのは、詩を書きためたノートだけ。

やなせたかしさんが編集していた月刊誌に、投稿する詩を選ぶために、毎月読み返していた。

私が書いていたのは、今と変わらないかたちの、短くてシンプルな言葉を綴ったものだった。

短い詩の中には、自分以外の言葉を入れる余地がない。

自分の言葉だけを、ひとつひとつ、小さな宝物みたいに詰めこんでゆく。

誰のものでもない、私の言葉。

対して長編小説や、求められている作文を書くためには、たくさんの言葉が必要で、自分の言葉だけじゃとても足りない。

だから、借り物の言葉をたくさん使っていた。

それが、読み返したときの違和感を、さらに大きくしていくのだと、当時は気がついていなかったのだ。

さて。

書くのが好きなのに、自分の文章を好きになれない矛盾を抱えたまま、40代になって、Facebookを始めた。

本名を使うSNSを、初めて使った。

何を書いても「中川希美」であることがわかる媒体。

そこで私は「自分じゃないものは書かない」という覚悟を決めた。

サービスを受けて、感想を書いて、SNSに投稿したのが、今の私の始まりだ。

「ありがとう!」と言ってもらえたとき、嬉しくて全身が震えた。

SNSでは、感想が返ってくる。私はさらに、返事をする。

書いておしまいではなく、書いてから始まる文章との出会いだった。

やりとりの中で「ああ、私は今、書くことで会話をしているんだ」と思った。

その文章の中には私がいたし、それは私の言葉に他ならなかった。

考えてみれば。

「書きたい」は、「私も書きたい」「私が書きたい」であって、

誰かの言葉を使いこなす、ゴーストライターになりたかったわけじゃない。

私の「書きたい」は、誰かに「伝えたい」だった。

ただ届けるだけじゃなくて、返ってくる言葉に、また言葉を返したい。

私は、私の言葉で、人とつながりたかったのだ。

昔、読み返すのが嫌いだったのは、その文章の中に「私」がいなかったから。

私の「書きたい」が叶わない文章を、書いていたから。

違和感を抱えたまま書き続けると、自分の文章が、どんどん嫌いになっていく。

借り物の言葉を使い続けると、自分の言葉との信頼関係を失う。

それでも、書くのが好きで、書きたいと思い続けてきた私がいる。

「これが私だ」と思える言葉は、自分の中に、必ずあるのだ。

そんな言葉と、できるだけたくさん出会いたくて、私は今日も書き続けている。

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