物書きに、憧れていた。
書かなければ死んでしまうような、文字で息をするような人でありたい、と思っていた。
自分の思いをうまく口に出せない少女だった私は、文章で表現することの感動を知り、うち震えていたのである。
感情が、文章を通しただけで、これほど流暢に出せるなんて知らなかった。
的確な表現を探し当てたときの、えも言われぬ快感。
自身の内面を掘り進め、その葛藤を昇華してゆく道のりの輝き。
私は、書かずには生きられない人なのだと信じていた。
それが事実ではなく、願望だったとわかったのは、子どもが生まれてからだった。
目の前のわが子に向き合っていたら、私は書かなくても、幸せに生きてゆけてしまうのだ。
言えない言葉は、書くしかない。
私には、それしかない。
だからこそ、書かなければ死んでしまうような物書きになりたかった。
書かなくても平気なら、書くことがなくても生きてゆけるなら、私には、何もないではないか。
「これしかない」と思って生きてきたものが、あっさりと覆る瞬間は、挫折を生む。
大きな幸せの中に、ひとさじの絶望を混ぜ込んで、平和を作り上げて暮らしてきた。
そして今また、書くことを選んだ私がいる。
書かなくても生きられると、知った上で書いている。
命を繋ぐ必需品ではなくても、私が人間として生きるために、言葉を綴るのは必要不可欠なことだ。
人生における、エンターテイメントと同じように。
書かなくても死なないとわかったから、自分を一方的に伝えなくてもよくなった。
そうしたら、人の話を聞けるようになった。
話を聞けるようになると、受け取ることも、伝えることも、前よりうまくなった。
交流が増えると、感じることが増えるから、書き綴りたいことも増えていった。
書くのが大好きなのは、今も昔も変わらない。
ただ、自分のためだけに、言葉を振り回すのをやめた。
文字で息をするように、命を燃やして書き続ける人にはなれないけれど。
はらはらと綴る言葉で、誰かの呼吸を、ほんの少し楽にできる人になれたらいいなと、今は思う。
そう、例えるなら、植物のような。
雨に打たれて花を咲かせたり、光を浴びて酸素を作り出したりする、豊かな循環の一部としての「書く人」に。
(note創作大賞2024・エッセイ部門)