子どもがまだ小さかったころ。
外食するときは、抱っこしたまま片手でも食べられるものや、子どもに取り分けできるものばかり選んでいました。
読むのは子どもの絵本だけ。
テレビも、車に流れる音楽も、子どもの好きなものばかり。
家で一緒に過ごす時間も、出かけるときも、子どもが第一でした。
それに不満はなかったんです。
そういうものだと思っていたし、大変ではあっても、苦痛ではなかった。
だけど、ある日。
健康診断を受けるために、初めて子どもを預けて、ひとりで病院に行ったんですよね。
長い待ち時間に備えて、本屋さんで、目についた本を1冊買っていきました。
病院の待合室で、順番を呼ばれるまで、誰にさえぎられることもなく、本を読みました。
たったそれだけのことに、ものすごく感動したんです。
ああ、私、自由なんだ。
心の底から、そう思った。
それから、子どもが大きくなるにつれて、いろんな自由が戻ってきました。
温かいお茶を、温かいうちに飲める。
おうどんが伸びきる前に、おいしく食べることができる。
ファミレスで、自分の食べたいものを注文できる。
運転するときは、私の好きな音楽をかける。
どれもささやかなことで、昔はあたり前だと思っていた…
ううん、気にも留めていなかった日常が、実はめちゃくちゃ幸せで、
私がやりたかったことたちなんだ、って気がついたのです。
でも、昔のちょっと不自由だった私を、
「やりたいことができなかった自分」だとは思っていないんです。
私はずっと、お母さんになりたかったから。
小学生のころから、赤ちゃんが大好きで、絶対に子育てしたいって思っていたぐらい。
物書きになりたいと思うのと同じだけの長い年月、持ち続けた夢だったから。
お母さんになりたくて、子どもにめいっぱい向き合ったから、すごく満足しているんです。
親子関係の改善点はいろいろあれど、何よりも、
「お母さんをやらせてくれて、ありがとう」の気持ちが大きい。
温かいお茶を温かいうちに飲めなかった私も、読みたいタイミングで本が読めなかった私も、
別の「やりたい」を叶えるために、こちらの「やりたい」を選ばなかっただけなんです。
改めてふり返っても、自己犠牲精神で子育てしていた感覚はないんですよね。
「これからは、子どもだけじゃなくて、自分の自由に生きていいんじゃない?」
いろんな意味で、そう言ってもらう機会も増えました。
子どもに親の人生を依存しないように、という意味でなら、素直にうなずけるのに、
もう子どもに縛られなくてもいいんだよ、という意を含まれると、どうしても違和感があったんですよね。
それは、子どもに120%を注ぐのも、私のやりたいことだったからなのだと、今ならわかります。
やってみたからこそ、わかったんです。
子育ても、自分だけの自由も、どちらも私のやりたいこと。
どちらもやってみてわかったことは、
やりたいことをやるのに、私に必要だったのは、
「今、私がこれを選んでやっている」と、自覚すること。
やりたいことをやる人生って、たったそれだけの、シンプルなことでした。
子どもたちが安心できるお家で、一緒に同じ時間を過ごすことも。
子どもたちがお留守番してくれて、ひとり気ままにお出かけを楽しむことも。
どちらもやりたくて、どちらもやれている今の私、幸せやな! って思います。
