歪に広がる夜の世界に、深く迷い込んで若い頃を生きてきた著者が、
「高級シャンパンやくだらないセックスとは違う刺激をくれた」
「私の身を世界に繋ぎ止めてくれたもの」
として紹介する、本の数々。
書評ではなく、この一文が自身の体験にどのように響いたかを記した考察論文のようなエッセイ。
読み進めながら、この人は頭が良いのだろうな…と感じます。
理解しがたかったり形容しがたかったりする物事を、言葉を総動員して、その全力を注ぎ込み、語り尽くしている印象です。
気に入った文に付箋を貼ったり、抜書きしていたという著者に、私も倣ってみました。
本当にやっかいなのは、意味や答えを用意しないと、こちらを無価値だと決めつけてくる昼の常識の方かもしれないのです。
『不思議の国のアリス』ルイス・キャロル
感性を信じて理性を保つ
『いつだってティータイム』鈴木いづみ
ただ、若い時にすべてのことが瑣末に思えるような、この世で最も崇高な気すらしていた性の扉は、開き切ってしまえばたかがセックスであって、それは今でも魅力的で楽しいものではあるものの、自分の価値を決定づけるようなものではなかったのだとは思っています。
そしてそんな刺激的な扉の前に立っていたせいで、見逃した人の本来的な面白さというものは数多あるのだとも思います。
『蝶々の纏足・風葬の教室』山田詠美
「男はお金と一緒に罪悪感を放棄するから」
『わが悲しき娼婦たちの思い出』ガルシア・マルケス
どちらかと言えば幸運をしみじみと後押ししてくれるものよりも、不運に寄り添ってくれるものの方が心強いと思うからです。
『大貧帳』内田百閒
不運であることを許せないと、実際に不運なことが起きたら、途端に不幸になってしまいますが、不運を抱えられる胆力があれば、不幸になるかどうかはその後に決められる。
『大貧帳』内田百閒
母と娘は他人と言うにはあまりに近く、しかしどうしようもなく他人です。母の肉体からまろび出て、そのうち母の介護をするようになるこの関係は平等になどなり得ない。
一度は母を捨てなくては、娘は母を嫌う自由すら意識できません。
その上で、母を嫌った自分を許す過程こそ、女が母とはまた別の人格である自分を獲得する過程のような気がします。
そこで幸運であれば、間近に存在した矛盾だらけの母のことも、理解しないまでも許せるのかもしれません。
『シズコさん』佐野洋子
電流が走るように、刺激的に私の中を流れていった文章たちです。
話の後先をはっきりと覚えていなくても、その一文は鮮やかに記憶に焼きつけられています。
「私の場合は、紙に印刷された大量の文字をひたすら追って、痺れる一文に出会うことこそ本を読む醍醐味でした。」
この読み方、確かにおもしろいです!