不登校で向き合ったもの③―不安―

私が不安を感じたのは、主に2つ。

「嫌なこと、つらいことから逃げても大丈夫なのか」

「学校へ行かない、責任を持てるのか」

でした。

【不登校で向き合ったもの③―不安―】

1つめは、要は「逃げ癖がつかないかな」というやつですね。

でも、自分の人生をふり返ってみたら、わかります。

逃げるしかないときって、絶対にある。

逃げなきゃよかったと思うことも、逃げてよかったと思うことも、どちらもある。

大丈夫かどうか心配するより、選んだ道で「大丈夫」にしていくしか、ないんですよね。

わが家では、

「ちょっとでもやろうかなと思ったら、やってみたら?

どうしても無理なら、やめたら?」

どっちでもいいんじゃない。を続けていたら、

いつしか子どものほうが、周りの友達や大人を見て、

「ここまで頑張ってみる」を、やるようになりました。

上手にサポートしてくださる、周りの皆さまに感謝です。

#そして逃げ癖云々の心配はいらなかった

2つめは、そもそも自分が「学校に行かなかった人生を、知らない」からの不安。

もちろん、不安を解消するために、前例は調べますが。

結局どうなるかは、そのときになってみないとわからない。

子どもがいちばん不安だろうことは、わかっている。

でも、親だってわからない。

わからないものに、責任なんて持てない。

ここに関しては、子どもの状態が落ち着いてきたときに、そのまま伝えました。

「お母さんは、学校に通って、進学して、就職したことはある。

だから、時代は違うけど、そこはなんとなくわかる。

でも、学校に行かなかった人生はわからないし、みんなと同じ量の勉強をしなかった人生もわからない。

想像するしかできない。

あなたなら大丈夫だと思ってるけど、大丈夫だと断言はできない。

だから、あなたが大丈夫だと思える生き方を、一緒に探したい」

って。

不安の感情に向き合うとき、いちばん役に立ったのは、

アドラー心理学の“課題の分離”でした。

子どもの課題は、私には変えられないもので、どうしようもないこと。

そこを切り離して、自分自身を見てみたら、

まあ見事に、不安の皮を被った不満ばかり、出てくる出てくるw

明日は学校に行くのかな。行かないのかな。

#ここまでは不安感

毎朝、今日の見通しが立たなくて、やきもきするのは嫌だなあ。

自分が動いてすむなら楽なのに。

じっと見守る、待つのって、大事だとわかってはいるけど、大変だなあ…。

これじゃダメだと言われようが、これでいいと言われようが、

未来のことなんて、わからないんだよなあ。

#あとはもはや愚痴

“子どものため”を隠れ蓑にした、駄々っ子みたいな、

「私にこれ以上どうしろっていうのさ、私めちゃくちゃ頑張ってるのに…」

が満載の心を持っていました。

課題の分離ができて、自分の問題だけを見られるようになって。

“今”の“最善”を、何度でも選び続けるしかないんだ。

良い意味でのあきらめを含んで、そう思えるようになったら、

不安を軸に、物事を見なくてもよくなったのです。

☆④へ続く☆

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