昔は、自分が嫌いでした。
ここ数年は、そんな私を認めて、好きになることを意識しています。
「自分のことが好き」「私は素晴らしい」と、肯定する努力でもあります。
そのためには、自分を偽らないことが必須でした。
「私はこれが好き」「こんなことは嫌だ」「楽しい」「苦手」「嬉しい」「悲しい」
本当はどう感じているのか、素直に受け入れてあげること。
ずいぶん、自分を好きになったなあ…なんて思っていました。
ところが。
「綺麗になりたい」と口に出せなかったことで、私はまだ、心から自分を受け入れていなかったのだと、気づかされたのです。
「ありのまま」の落とし穴
私は、否定的に怒られるのが嫌いです。
相手の怒りが向いているというだけで、身も心も萎縮して、うまく機能しなくなってしまいます。
正当であれ理不尽であれ、否定的な怒りを受けるのはつらかったから。
その状態で、「今の私でいいんだ。そのままで十分、価値があるんだ」と考えるように頑張る。
つまり、「人から怒られる私」のことは、嫌いだったんです。
「それでいい」とは思っていなかった。
自分を肯定するためには、「怒られないように立ち回る」ことが必要でした。
自分を好きでいるために、怒られないようにする=怒られるのは(私にとって)悪いこと
他人に振り回される方程式の出来上がりです(笑)。
「綺麗になりたい」も、同じで。
ありのままの自分を好きになる=「足るを知る」で今に満足する=自分に足りないものを「こうなりたい」と求めるのはよくないこと
こうして書いてみると、もはや謎の思い込みですね。
何だっていい
好きになる、受け入れるための「自分」は、まだまだ意識的に作られていたんだな、と痛感しています。
本当は、どちらでもいいのに。
本当は、何だっていいのに。
勝手に私がジャッジしていただけです。
今度は、その枠を捨てていこう。
――あっ、「あるがまま」って、まさにこれだ!
人や物事に対してだけでなく、自分自身にも当てはめてあげるべきでした。
まずは、「怒られてもいい」「怒られても大丈夫」と、私をそのまま許してあげることにします。