私は「人見知り」で、「話すのが苦手」。
で、40年生きてきたのですが。
もっと感情を出してみようかなと思ったので、人と話すことの何がどのように苦手なのかを、明確にしてみようと考えました。
苦手だとは感じるものの、そのときどきで一緒に過ごす相手がいないわけではなかったし、楽しい思い出もあります。
だから、何が自分にブレーキをかけているのか、実はわからなかったのです。
まずは、対人関係で思い当たる記憶を、たどってみることにしました。
40年間の人間関係を考える
子ども時代には、
- 保育園で、トイレに行きたいと言えずにおもらしして、先生に怒られた。
- 幼稚園で、みんなの前で話ができずに、ずっと立っていた。
- 近所の人を訪ねなければならない用事があったが、行って話すのが嫌で、動揺を隠すために相手に失礼なことばかり言っていたら、母に怒られた。
- 小学生のとき、友達グループを抜けたら、クラスで孤立してしまった。
思春期の頃は、
- 好きなことをしても親から誉めてもらえず、成績が落ちて叱られてばかりいた。
- 自分が頑張ればどうにかなると信じていたのに、好きな人に好きになってもらえず、ものすごくつらかった。
- 自分が決めた進路を、親に反対され、ぶつかり合いや決裂する勇気がなく、あきらめた。
社会人になってからは、
- いつまでも彼氏の裏切りを許せず、事あるごとに責め続けた。
結婚してからは、
- 最初の結婚での失敗を、親に認めてもらえず、居場所がなかった。
- 離婚歴のある自分はだめだと親から言われて、再婚先では失敗しないように、自分を殺していた。
- 忙しそうな人の手を煩わせるのが申し訳なくて、自己判断で仕事をして、よけいに迷惑をかけた。
「対人関係」と考えたときに思いつくのは、こんな過去です。
「怒られる」「否定される」が、私にとっての恐怖で、だから人と話すのが苦手だったのかな。
…でも、それと対になるような思い出も、あるんです。
傷ついたり苦しんだりしたのと同じくらい、わかってもらえる相手がいる嬉しさを噛みしめる瞬間があったし。
小学生のときはクラスの中心グループ、学生時代は演劇部、大人になってからは接客業や営業職…と、人見知りを直したくて飛び込んだ場所では、確かに「人と話すことの楽しさ」を感じていて。
「得意じゃないけど、好きだなあ」ぐらいには思っていたはずなのです。
今も、数年かけて溶け込んだ地域には、居心地のよい人間関係もたくさんあります。
ということは、悩んではいても、まったくの対人恐怖症ではないし。
「これが原因だ!」なんて出来事は、特になさそうです。
人と「話す」シチュエーションを考える
一口に「人と話す」といっても、状況はさまざまです。
人数で考えると、
- ひとりの相手と話す。
- 少人数(5人以下)のグループで話す。
- 中人数(10人前後)のグループで話す。
- 大人数(20人以上)のグループで話す。
関係性で考えると、
- 仲のいい人
- 信用できる人
- 顔見知り
- 苦手な人
- 嫌いな人
- 初対面
立ち位置で考えると、
- 同じ立場で話す。(世間話、話し合い)
- 自分が前に立って話す。(講演、司会)
- 相手を立てて、意見を求められれば話す。(聞き役、うなずき役)
- 役割に従って話す。(演劇)
私は、大人数や人前に立つことに苦手意識はあるけれど、台本通りに演じることはできる。
初対面でも、接客業のように、話すことがある程度決まっていれば大丈夫。
苦手な人や嫌いな人とは話したくないけれど、ひたすら頷くだけなら、笑ってやり過ごせる。
「これは絶対だめ!」というパターンは、ただひとつ。
「苦手な人や嫌いな人に、自分の気持ちを伝えて、怒られたり否定されたりする」
――それって、人として、普通のことじゃないですかね?
そこだけが苦手だからって、「私は人と話すのが苦手」ってことには、なりませんよね?
「苦手」を考える
人と話すときに、リラックスしているときもあれば、冷や汗をかくぐらい緊張するときもあります。
緊張が初対面の相手や苦手な人に多いのは、「どんな反応をされるかわからない」「自分がどう思われるかわからない」「嫌なことを言われて傷つきたくない」からで。
これも、緊張の度合いは人それぞれかもしれませんが、「自分をさらけ出す恐怖」は、誰もが持っている気持ちですよね?
食うか食われるかの社会だったら、むしろ生存本能です。
結論として。
私は、「人見知り」でも、「話すのが苦手」でもない。
ちょっぴり緊張しいで、生存本能が強いだけでした!
相手の反応が気にかかるのは、それだけ感受性が豊かな証拠ということで(笑)。
今日から、「人見知りで話すのが苦手」な私、やめてみます。