タイトルの語感に惹かれて、手を伸ばし。
裏表紙のあらすじを見て、そのまま買ってきました。
父と母が別々の神さまを信じ始めて、“当たり前”がなくなった家族の中で、妹を守ることで何とか心のバランスを取るけれど、ますます壊れていく家族。
そこに立ち向かう「ぼく」の物語です。
宗教ではなくても、子どもを夫婦の板挟みにしてしまうことって十分にあり得るし、そうしたくないからこそ、読んでみようと思いました。
私は幸いにして、宗教の違いで苦しむ家庭ではなかったけれど、征人の気持ちは、なぜか身に覚えのあるような気がします。
友達と、宗教関連で距離感が難しかったり、どうしてもわかり合えなかったりした経験はあるから、その記憶かなあ。
伝わらない、見えているものが違う…鬱々としたもどかしさが、よくわかります。
そのとき、うまく言えないままにもやもやと抱いていたものが、征人たちの言葉で、はっきりと輪郭を表しました。
ステージに立つ彼女も、勉強会に出ている会の人たちも、みんな被害者すぎると思えてならなかった。
彼らの口から出てくるのは、いつだって「つらい目に遭っている」自分のことだ。
だったら世の中には被害者しかいないのではないかと錯覚してしまう。
同じように誰かを傷つけているかもしれないという話は一度だって聞いていない。
会の集まりで征人が感じた、これだ。
そして、
「信仰はオレたちの人生の方法ではあるけど、目的じゃない。ファミーリャを苦しめるデーウスなんていてたまるか。
べつにどんな信仰があってもいい。でもデーウスだけは等しく、人間を幸せにするためだけに存在してなきゃいけないんだ」
(中略)
「他者を認められない神さまなんかに価値はないって、オレとマリアは何度も話し合ってきた。
この世界がここまで見事にクソッタレなのは、人間が自分以外の他者を認められないせいだってオレたちは信じてる」
征人の身の上を聞いたエルクラーノが、迷いなく放った、この言葉だ。
自分の中に渦巻いていた違和感を、こうして言語化してもらえると、すっきりします。
この話は、宗教で描かれているから極端でわかりやすいけれど、実はどこにでも誰にでも起こることです。
最初に、「子どもを夫婦の板挟みにしてしまうことは、あるかもしれない」と思ったように。
子育て方針、仕事や家事に対する考え方、生活習慣、家族の形…。
自分の当たり前は、相手の当たり前ではない。
ともすれば「宗教戦争」になるような火種はたくさんあって、それでも相手の価値観を受け入れて、理解できなくても否定せずに、共に生きられるか。
ぼくの好きだった父が、優しかった母が、同じ神さまさえ信じてくれていたら、ぼくたち兄妹はこんなに苦しまなくて良かったはずだ。
(中略)
教えがどうかとか、何が正しいかとかも実はぼくらにとってはどうでも良くて、ただそのどちらかを選択するということが、父と母のどちらか選べと迫られていることに等しいというだけだ。
そうなのだ。わかっている。ぼくが理想と思うぼくたちの物語のエンディングは、別荘に立て籠もることじゃない。
もう一度、父と、母と、ミッコと、四人で笑っていることだ。
同じものを信じて笑いたい、ただそれだけの子どもの願いが、親の立場になると、痛いほど刺さります。
ああ、そうか。
征人の気持ちを、なぜか知っているような気がしたのは、大なり小なり、父親と母親の人間としての違いや噛み合わなさを目にしたことがあるからか。
私と旦那さんを見ていても、きっと子どもたちは、それを感じているはず。
とすれば、親の仕事は「別々の人間が、どうやって共に生きていくのかを、ちゃんと見せていく」ことになりそうです。
実におもしろくて、考えさせられる1冊でした。