生を祝う(李琴峰)

新聞に紹介記事が載っていて、読んでみたかった1冊です。

胎児の同意を得なければ出産できない近未来で、胎児から「出生拒否」された主人公の物語。

作中で「殺意」と「産意」という言葉が使われていましたが、考えてみれば、どちらも変わらないエゴであり。

その葛藤は、不妊や流産や中絶と、何ら変わらない苦しみでした。

主人公が考える、「自分で選んで生まれてきたから、人生の困難を乗り越えられる」という感覚もまた、よくわかります。

本当に大事なのは自分の意思で決めることそれ自体じゃなくて、それが自分の意思だと信じ込むことなのかもしれません。

重要なのは真実じゃなくて、そう、信念なんです。

今よく言われている、自己肯定感の大切さと同じですね。

むしろ、子どもの自己肯定感を高めるのに優れている制度であるのかもしれません。

それでも。

子どもをお腹で育て、生まれてきてくれる幸せを知ってしまった私からしたら、もしも我が子に出生拒否されたら?

それこそ生きていけない苦しみ、引き裂かれる悲しみに呑まれてしまうでしょう。

完璧な制度なんてないと思うよ。どの時代のどの制度も、人間の限られた知性の中で作られたもの。

そして人間が完璧じゃない以上、どんな制度にもきっと欠陥は存在するし、後の時代から見ればとんでもなく愚かしく映るものだってある。

けれども、それは今ここでは正しいから、間違った望みを抱えた人は、逃げ場がない。

出生拒否による堕胎手術を受けて、また犯罪者の烙印を押されて、深く傷つき苦しんでも「外の世界では、気持ちを吐露することすら許されない」んです。

だからこそ、「大変だったね」「泣きたいなら、たくさん泣いてね」と、柔らかく寄り添う温かさに救われるのは、制度が変わっても、変わらないものだし。

心から望んだ我が子に、

「私は自分の子供の出生に、呪いじゃなくて、祝いを捧げたい。心から言祝ぎたいの」

「何が正しいかは分からないし、何を信じればいいのかも分からない。でもこれが、この子のために今の私にできる唯一の選択。そんな気がする」

幸福を願う思いもまた、変わりません。

今この瞬間も、この世界では多くの命が生まれている。

そのことが、この上ない希望のように思える。

自身の苦しみを越えて、世界の希望を見いだせることが、「自分の意思で生きていくこと」のような気がしました。

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