すごくおもしろくて、ぎりぎりまでくり返し読んだ前作。
返却しに図書館に行ったら、2巻がある!
迷わず借りて、一気に読みました。
やっぱり、おもしろくて最高です!
「恋の考察をグランマと」の、祖母と孫の関係が素敵で、こんなおばあちゃんになりたいなあと思いました。
前作の「偏屈じじい」といい、「三匹のおっさん」や「片見里荒川コネクション」といい、老人と孫世代の物語、大好物ですね。
でも今回いちばん好きだったのは「クイーンの失脚」です。
前作では悪役サイドだった女の子の価値観や思考、それらが培われた環境、友人を失った苦しみや葛藤が描かれていて。
自分の醜さを自身で認めて、変わっていこうとする彼女のことが、すごく尊くて愛しくなりました。
私、同じことをしていたかもしれない。
自分の思い通りにいかない。誰かのその行動に意味を感じない。そんなとき、私は簡単に否定しやしなかったか。声高に、反対しやしなかったか。
いや、していた。強い言葉をぶつけた彼らの事情や思いを何ひとつかんがえることをせずにいた。知ってほしければもっと声を出せばいい、と不満を抱いた。
この言葉に、ぎゅうっと締めつけられます。
他ならぬ自分が、その昔、正論をふりかざして、盾にする人間だったから。
気がついて、後悔して、謝りたいなと思っても、そのときの私を「否定したひとは、ちゃんと去って行った」後だから。
今さら直接謝って、許してもらいたいと願うのは甘えで、後悔を抱えて生き続けるしかないような出来事は、きっと誰しもたくさん持っているのだろうと思います。
でも、正しさの陰に苦しんでいるひと、傷ついているひとがいるなら、正しさを主張しなくていいこともあると思ったんだ。
私、正しさのもつ強さとか、それをかざすときの傲慢さを知ったの。
私が傲慢さに気づいたのは、彼女よりもっともっと後でした。
私はグループの中心的存在ではなかったから、たまたま一対多数のいじめにはならなかっただけで。
未熟で独りよがりな正義感で傷つけた人はたくさんいるし、私にいじめられたと感じている人も、いるかもしれない。
大事なのは正しさそのものではなく、その使い方をきちんと知っていることなのだと、今ならわかります。
だからこそ、このように言える彼女の変化が、尊いものに思えるのです。