センス・オブ・ワンダー(レイチェル・カーソン)

一度読んでみたかった、レイチェル・カーソンさん。

「沈黙の春」という著作タイトルだけは、子どもの頃に知ったのですが、難しそうで手を出さずじまいでした。

こちらは、とても読みやすくて、優しさにあふれた文章が綴られています。

解説でも「彼女の著作のなかで、もっとも美しくて優しい本」と書かれているほど。

自然は、決して嫌いではありません。

人工的なビル群の中よりは、緑の木々や青い海が見える場所で暮らしたいし、自然を愛せる人間でいたいと思います。

でも、どうしても虫は嫌いで、素肌にざらざらと絡みつく砂や植物の感触は苦手。

自宅ではなく、散歩に出たら自然があるね、というような場所が好きです。

触れたいわけではない。少しだけ離れたところから見ていたい。

それは果たして、自然を愛しているのか。

子どもたちの世界は、いつも生き生きとして新鮮で美しく、驚きと感激にみちあふれています。

残念なことに、わたしたちの多くは大人になるまえに澄みきった洞察力や、美しいもの、畏敬すべきものへの直感力をにぶらせ、あるときはまったく失ってしまいます。

自然から、このような力を確かに感じて、子ども時代は息をするように味わっていました。

作中で、センス・オブ・ワンダーは「神秘さや不思議さな目を見はる感性」と訳されています。

大人になってから、昔より自然への感性が衰えたことを感じたけれど、それでも心が動いたときは言葉に綴っていました。

この感性は、やがて大人になるとやってくる倦怠と幻滅、わたしたちが自然という力の源泉から遠ざかること、つまらない人工的なものに夢中になることなどに対する、かわらぬ解毒剤になるのです。

「センス・オブ・ワンダー」の風景は素晴らしいと思うけれど、どうしても、子どもの頃より自然を愛せない。

このままでは、自分が生きて書き続けるのに必要な感性が、どんどん減るばかりで甦らないのではないだろうか。

そんな中で、こちらも解説にあった一節です。

命に触れて想像し、ドキドキすることが少なくなってしまいました。自然が、海が遠くなってしまった今、物語の中にはドキドキや想像や驚きが残されていると思う。

物語を読むことは、不思議を感じる心、センス・オブ・ワンダーを喚起することなのです。どうやってこのカエルたちは生まれるんだろう、どうしてオタマジャクシの尻尾が短くなるんだろうとイメージすることと、物語を読みながら、主人公がこれからどうやって生きていくんだろう、次は何をするんだろうと想像することは、同じことなのです。見えない世界を想像して楽しむということが、物語を読むことだから。

そして本は、自由に読むことができる。嫌になったらやめることもできるし、次の日にまた読み始めることもできる。そこに自分が入り込める余地がある。「これからどうなるのかしら」と想像する自分が入っていく場所が、物語の中にはあるのです。

これで、救われた気がしました。

私は、自然のすべてを愛せてはいないかもしれないけれど、好きな部分があるのは確かで、それだけでもいいのかもしれない。

物語は、今でもずっと、わくわくドキドキしながら読めます。

だから、自然を愛することで持ち続けたかった感性は、自身の中から失われたわけではないのだと思えました。

もう少し肩の力を抜いて、自然と向き合ってみることにします。

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