自分の好きなものを、乱暴に扱われると、腹が立つ。
私は“言葉”が好きだから、
楽な単語に、自分の感情を乱雑に押し込んで表現されると、
お腹の底が、ちりちりと燃える。
「何でもかんでも“蛙化現象”で片づける」人の話を聞いたときや、
子どもが苛立ちを「きもっ」という一言で、ぶつけようとしたとき。
自分の五感を、雑な言葉ひとつに落として終わらせてしまうのは、
自分の感情の、責任転嫁じゃないか。と、憤ってしまうのだ。
けれど、その憤りを口にしたことは、ほとんどない。
炎のような、沸騰する一瞬のあとで、今度は怖くなるからだ。
私自身、毎日の言葉のすべてを、同等に丁重に扱えているわけではないのにと、
わが身をふり返って、怖くなる。
「言葉を知らないから、使えない」人がいる一方で、
「言葉を使うことに慣れたから、流してしまう」人もいる。
私が恐れているのは、後者である。
包丁に慣れてしばらくの頃、無意識にリズミカルに野菜を刻んでいて、
唐突に指を切ってしまう、あの感じに似ている。
気づいたときには、取り返しのつかない“何か”を、発しているのではないか。
こうして書き直せる言葉でさえ、取りこぼしている何かが、あるのではないか。
感情の責任転嫁じゃないか、と思ったとて、
自分の憤りの責任を持つ自信がなかったから、口には出さなかった。
それを初めて、ここに書いてみようと思ったのは、私が“言葉”を使う仕事を始めたから。
店頭に立てば、新入社員もベテランも、等しく「店員さん」というプロになる。
言葉を使って仕事をすれば、駆け出しだろうが重鎮だろうが、
どんなに自分が未熟だろうが、プロなのだと意識しておくもので、
言葉のプロは、自分の言葉の責任を、自分で持つものだ。
私が誰よりも、私の言葉の責任を、転嫁しようとしているじゃないか。
そう気がついてしまったから、ふるふると震えながら、
まずはこうして、書くことにしたのである。