前に、こんな日記を書きました。
「味わいきった感情は、ずるずると引きずらずに、心に収納できるんだ!」って。
“味わいきる”の効果は、実はそれだけではないようなのです。
【さらに、感情を味わいきると】
今回は、息子とのお話。
彼の不登校サポートは、プレ期から数えると、5年目になります。
中学生になって、卓球部に入って、少しずつ練習に参加できるようになって。
先日、いよいよ初めての試合を迎えたんです。
本人が望んで、参加に向かって頑張る姿は、めちゃくちゃ嬉しい!
で、長男の言い分ですよ。
みんなと一緒に、会場への移動はできないから、送迎してほしい。
→うん、わかる。
思春期じゃん? 親には見られたくないから、見に来ないでほしい。
→寂しいけども、わかる。
祖父母は見に来てもいい。
→気持ちはわかるよ、わかるけど…いやいやいや!
――って、なりましたw
めちゃくちゃ悲しくなったので、これを味わいきってみよう。と、思ったんですね。
息子が心地よく頑張れることを、いちばんに優先したいから。
モヤモヤとした悲しい気持ちを、引きずりたくなかったから。
#引きずったら絶対に
#変な形に拗らせる自信がある
というわけで、まずは丁寧に、たどってみます。
「うんうん、そうだよね」って、共感しながら。
《私だって、迷いながら、悩みながら、まあまあな期間をサポートしてきた。
いわば推し活みたいなもの。
その推しが、いよいよ自分の好きなことを見つけて、新たな挑戦をする!
そんなの、最前列で応援したいじゃん…!》
と、ここまでが、たぶん最初の“悲しい”で。
《なのに運転手要員だなんて!
祖父母は本番を見られるのに、ずるい!
おまけに、思春期男子全開の無愛想さで、それを言うんだものなあ。
せめて、申し訳なさそうな顔とか言葉とか、つけてもらえないものかな!》
後半は、“ずるい”“うらやましい”だらけ。
《でも、それを言って、息子が気にしたり、頑張る気が失せたりしたら嫌だ。
彼が気持ちよく頑張れて、いい成功体験になるのがいちばんだから。
私、いい親になろうとしてるんだろうなあ。
だって、少しでもいい親になりたいんだもの。
お母さんの子でよかったなって、思ってもらいたいんだもの。》
なるほど、ここから生まれてくるわけか。
「頑張ってるのに報われない、かわいそうな私」が。
最初の「悲しいな…」は、透明な雫みたいに、小さくて綺麗な形だったのに、
あとからいろんなものが加わって、真っ黒などろどろになってゆくのが、
それを綺麗な布で覆い隠そうとする自分が、見えます。
ここまでの“たどる”作業は、感情を「味わいきろう」としなければ、
私は、無意識にはできないことだったな。って気がつきました。
ただ感情を味わうだけだったら、最後のどろどろ部分に浸って、
不満や怒りを増殖させ、結果として振り回されていたはず。
順に肯定しながらたどるから、普段なら目をそらしたいものも、
しっかり出して、認めることができる。
そして次に、こう思ったわけです。
「最後の黒いどろどろじゃなくて、最初の美しい雫のところを、じっくり味わいたい」。
なので今度は、順番に再度たどりながら、出てくる感情ひとつひとつに、
「そうなんだね」と、返していきました。
最初の自分自身への共感は、良い肯定の意識があるので、感情にジャッジを下す感覚が、少し入ってくるんですよね。
最初の「ここを味わいたい」と思ったところから、肯定も否定も入れず、
「そうなんだね」を続けていくと、なんと!
放っておいたら生まれてくるはずの、真っ黒でどろどろした部分が、薄い灰色の煙ぐらいにしかならなくて、
「そうなんだね」で、フッと立ち消えてしまうぐらいのものに、なっていました。
味わいきろうとしたら、ためつすがめつ、舐め尽くすように丹念に、
何度も何度も、ひとつずつ見つめていくことになる。
これが私には、主観以外の視点を得るのに、すごくよかったらしい。
私の場合は、発端のシンプルな感情から、ひとつずつ味わったほうが、着地点が気持ちよくなるみたいです。
#感情の食べ残しがないように
今回わかったのは、
“感情を味わいきる”と、
“自在な視点で、ノージャッジ”な状態を、得ることができる。
です。
#主観でも俯瞰でも感情を見られる
#見たくない部分があるとしても
#ジャッジしなければしんどさ半減
おもしろいなー!
あ、息子にはそのあと、伝えるべきと思った部分は伝えて、
家族にも相談したら、予想外の角度から、長女のアシストが入り。
試合は見に行けなかったけど、私は私の時間を過ごせたし、
息子はしっかりと出場して、活躍していた様子でした!