海を見ながら、頭の中身を捏ねている。
海は、いい。
ふと顔を上げても、変わらずそこに広がっている。
だのに、目を合わせるたび、表情が変わる。
見ていても飽きないし、見なくても安心する。
考えるともなく考える、波のように頭を遊ばせるのに、ちょうどいい。
海で思考のスイッチを入れるときは、ガラスを一枚、隔てたほうがいい。
あまり近づきすぎると、波の手招きに、体ごと持っていかれそうになる。
五感を広げて、世界に満たされたいときは、波打ち際に立つ。
とめどない思考で、世界を俯瞰したいときは、海の見えるカフェに行く。
今日は、後者。
考えていたのは、文章のこと。
私の文章は「やさしい」「情景が浮かぶ」と、言ってもらえることが多い。
ところで、人間のコミュニケーションには、
言語とその意味を重視するタイプと、感情の共有を重視するタイプとがあるらしい。
どちらかに分かれているわけではなく、グラデーションの中を生きている。
その中で、私は限りなく言語に寄っている、らしい。
らしい、らしいというのは、これは私のメンターさんが話してくれたことであり、実は自覚が薄いゆえに。
言語に寄っている私にも、もちろん感情はあるのだけれど、感情的に語ることができない。
感覚と、感情と、気持ちというものがあって、
私の文章で取り扱っているほとんどは、感覚と気持ち。
感情を結びつけて書くのが、とても難しい。
これも、メンターさんに言われてから、なるほど確かにと実感した。
とはいえ、伝えたい心の動きは、ある。
だから私は、情景が見えるように描くのかもしれない。
それを読んだひとが、自分の内側の景色を思い浮かべて、感情を想起するように。
感情を語らずに、感情ごと共有しようとしている。
私の目が、耳が、手足がとらえた世界を。
どんなことが起こり、何を感じ、考えたのかを。
画家や写真家の作品のように。
そう、作品。
私にとって、文章はアートだ。
言葉の選び方や連なりの前に、私の視点と体験がある。
内側から湧き起こるものが、必ずある。
SNSをやっていて気がついたのだけれど、コミュニケーションを楽しむために、
「コメントで教えてくださいね」って、書ける投稿と書けない投稿がある。
書けない投稿は、その一文を添えると、文章の世界観が成り立たなくなる。
と、思っている。
だから、やっぱり、文章はアートなのだな。
そして私は、難解なアートが好きじゃない。
わかるひとにしかわからないものより、誰もがそれぞれに「わかる」と思えるものがいい。
ちょっとの難解はスパイスになりうるけれど、難解すぎると楽しくない。
だから「やさしい」文章を、書こうとするのだ。たぶん。
優しくて、易しい。
波が思考を運んでは、去ってゆく。
ざざ…と、寄せては返すリズムに合わせて、思考の泡が浮かび、
「だから〜なのだ」の納得に帰ってくる。
海はくるくると表情を変え、その存在は変わらない。
私の頭はぐるぐる動き、私の体は微動だにしない。
内側ばかりが、どんどんマニアックに偏っていく。
そろそろ、思考のスイッチをオフにする。
ほんのりと海の色が翳ってきた。
ガラスを越えて、海に近づく。
風が、ごうごうと駆けてくる。
絶え間なく、海のうねる音がした。
