揺れる心の真ん中で(夏生さえり)

いつも見る書店のエッセイの棚には、有名な大御所さんを除いては、「暮らし」「恋愛」「旅」「育児」など、テーマを前面に押し出したものが多い中。

何かに特化するわけでなく、「著者自身」が描かれているような風に惹かれました。

ぱらりと開いたら目に入った、「当時ひきこもりだったわたしが」という一文が、そう感じさせたのかもしれません。

著者のさえりさんが、27歳から28歳までの、「変わっていく自分に、自分自身で驚きながら暮らしていた」約1年間に、書き綴ったエッセイだそうです。

なんでもない、ささやかな日々を積み重ね、人は気づけば変わっていく。

そんな姿をどうか、楽しんで、そして愛おしんでもらえますように。

昔がよかったとか、今の方が正しいとか、そういう評価や判断は一切ありません。

揺れ動き、変わりゆく「その瞬間の、ありのまま」を描く姿勢が、心地よい1冊です。

それをいちばん感じられたのが、こちら。

「若気の至り」に甘える

もちろん、その言葉に甘えて誰かを傷つけていいというわけでもなければ、迷惑をかけていいというわけでもないけれど、〝思い出したくない過去〟を肯定してあげる魔法の言葉にするにはいいんじゃないか。

過去の自分の傷を癒すようにかざす。または「もしかしたら、あとで考えたらめちゃくちゃ恥ずかしいかも?」と二の足を踏んでしまうようなときにも、お守りのようにかざす。

いいのいいの、未来のわたしより、今のわたしは若いんだから。若さに甘えよう、と。

じつは先日、とある出来事があり「過去」について色々と言われる機会があった。わたしの、わたしでも誇れない過去について、そのことひとつで「わたし」を否定されたように感じて悲しくてつらかった。たしかにあれはわたしなのだけれど、今のわたしとは全然違うのに、と思った。

(中略)

「若気の至り」という言葉を上手に使って、誰かや自分の〝思い出したくない過去〟を肯定できるといい。人のダメなところを責めたり、自分の過去を責められないために隠したりするのではなく、「若かったのよね」と笑って許してあげられるやさしい社会でもいいんじゃないか。

すごく素敵な柔らかさだと思うんです。

私にも、「そのときはそれがベストだったけれど、今なら違う選択をするな…」という、恥ずかしい過去はたくさんあるし。

今の私を見てほしいのに、「昔そうだったから、今もだよね」と思われるのは、つらい。

人に対しても、同じように、過去で決めつけたくないです。

さえりさんが感じたり考えたりしたことが、ちょうど今の私と似ていて、それも心地よさのひとつかもしれません。

たとえば、こちらも。

「なにも変わらないことの、なにがいけないの?」

「今、なにかしたいことがあるの?」

「ない。なにかしたいという気持ちはあるけど、なにをしたいのかはわからない」

「そっか。したいことが出てきたら、すぐにしたらいいと思う。でも今ないなら、別になにかを変えなきゃ、前に進まなきゃって思わなくてもいいんじゃない?」

(中略)

「さえりはさ、なにをしたいかを考えるよりも、どう在りたいかを考えるひとだと思うんだよ。どんな生活をして、どんな自分でいたいかを考えるひとなんだよ。

だから『なにをしたい』とかなくていいよ。今までのように、どう在りたいかを考える。それでいいんじゃないかって、俺は思うけど」

この「何かしなくちゃ」という焦りに似た気持ちは、私の場合、周りと自分を比べたときによく起こります。

そこで考えすぎて萎縮してしまうか、「私は私なりに」と線を引けるかで、人生の幸せ度がまったく違ってくるのですが(笑)。

どうやら私も、さえりさん側の立ち位置のようです。

「何をしたいか」ではなく、「どうありたいか」を考えたとき。

著者の28歳の抱負である、「心が喜ぶ選択をする」ことが、偶然にも近くて、共感が深まります。

さえりさんの本なので、当然ながら私そのものではないのだけれど、まるで私のような欠片が、あちこちでそっと光っていました。

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