伝える、届ける

先月、この冬最後の雪が積もったときのこと。

保育園からの帰り道、次男は嬉しそうに新雪を踏み、足跡をつけて回り、雪をすくって丸めては投げて。

ずっと飽きずに、くり返して遊んでいました。

フードをすっぽりとかぶって、自分の足元を見ながら歩く、頭から背中にかけての子ども独特の丸みが可愛くて、私もずっと見つめていました。

それから、ふと思ったんです。

身近に子どものいない人や、子育てを体験していない人に、私が感じたこのたまらない可愛らしさを、どうしたら伝えられるんだろう…と。

体験したことのない場面で湧き起こる感情を、本当に伝えるのは、すごく難しいと思いました。

この場合でいうと、同じ親の立場を経験した人には伝わりやすいけれど、そうでない人には伝わりにくい。

私の場合は、そんな未体験の出来事も、物語として読むと、登場人物に感情移入するので、想像しやすくてわかりやすいです。

じゃあ、物語ではないものは、共感度は何で決まるのかな?

私がエッセイを読んでうなずくのも、人生経験を積んで、ある程度「わかるわかる」という前提があるからだと思うんです。

子どもの頃は、エッセイのおもしろさはわからなかったし。

となると、どれだけ言葉を尽くしても、前提条件の揃わない相手には、自分が感じたものを確実に伝えきるのは不可能で。

たとえ同じような立場の相手であっても、そもそも100%をそのまま伝えることはできないんですよね。みんな別の人間だから。

だけど、もしかしたら。

子どもが身近でない人には、次男の背中の丸みの可愛らしさは伝わらなくても、私がそのとき感じた幸せの温度みたいなものは、伝えられるんじゃないかなあ。

楽しいとか、嬉しいとか、悲しいとか。幸せとか、心地よさとか、爽快さとか。

文章は想像力に委ねる部分も多いからこそ、どんな形にもなれるから。

形を変えて流れ続ける水のように、受け手にもっとも合った形で、届けられるんじゃないか。

私が文章に感じている魅力は、きっとこの自由度の大きさなんです。

天職を考えていたとき、絵でも演技でも歌でもなく、文章を選んだのは、消去法でしかなかったのかな…と凹んでいたけれど。

それだけじゃなくて、私には私なりの、文章が好きな理由がちゃんとあったんだ。

ああ、やっぱり、文章書くのが好きでよかった!

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