今日は、学びについて書きます。
私にとっての読書や育児や生き方のような、好きでやりたくて学んだことではなく、
そんなにやりたいわけじゃなかったんだけど…という勉強の話です。
【学びに助けられる】
私は、学校の授業の大半が嫌いで、微分積分や物理方程式が、将来何の役に立つの? を、勉強しない理由に使う学生でした。
実際、私の今の日常生活では、微分積分どころか因数分解すら使う機会はありません。
それでも、一般常識の範囲内では、嫌いだった勉強も役には立っている感覚です。
たとえば、地理で47都道府県を覚えて白地図を埋めるのは、すごく苦手だったけれど、
はじめましての相手とお話しして、出身地の話題になったときに、その位置がわかれば、
「こちらは寒いでしょう、雪が多くて驚かれませんでしたか?」などと話を広げられたり。
分数もめちゃくちゃ苦手でしたが、頑張って概念を理解したおかげで、
子どもたちとおやつを分けるときに、何等分で・何分の何で…とイメージを描けたりしますしね!
そんなふうに、学びの意義が漠然としていた私が、
「知っておいてよかった…!」と、実生活で強く感じたことがあるんです。
それが、認知症について。
もともと「人の役に立てる」という点で、福祉の分野には少し関心があったのですが、
現場職としての介護には、そこまで興味を持てずにいました。
子どもが生まれてから、再就職のために、介護の初級の資格は取ったものの、仕事に活かす機会もなくて。
まあ、同居家族もいずれ高齢になるから、何かの役には立つかもしれないな…ぐらいに思っていました。
でも、積極的に家族の介護をしたいわけではなかったんです。
結婚した当初、義家族の中には、“その地域で逆らってはいけない3本の指に入っている方がいる”
と知り、若かった私は震え上がったものでした。
おおむね良好な関係を保っているけれど、良好にするためのストレスはそれなりにありますし、
家族じゃなかったら、たぶん関わらないような存在でもあります。
だから、その家族の認知症サポートも、喜んでやりたいとは正直思えない…
残念ながら、そのような関係しか築けていないのですが、
今いちばん関わる立場が私になっているために、認知症を知ろうと思って、少しずつ学び始めました。
結果、知識を得ることで、相手を客観的に見れたり、落ち着いて対応できたりするので、
症状を悪化させるようなことはしていないと思いますし。
何より、私の心の平穏を守ることができている。
だから、認知症について、介護について、積極的に学びたいわけじゃなかったけれど、助けられています。
昔、嫌いだった学校の勉強も、たぶん同じことなんだろうな。
日本の義務教育のあり方については賛否両論ありますが、そこは今回の論点ではないので、さておいて。
大人になってから、過去に学んできた点と点が、繋がっていくことがあります。
その点をより多く打ち込むのが、好きで楽しいことも、何の役に立つのかわからないけど嫌いなことも、
一通り学んでみる義務教育なのかな…と、思いました。
40代になった今、環境や体力や、いろんな面から、時間をかけられるところが限られてきています。
一度触れてみて、
「やりたいな、やってみよう」「私には向いていなさそうだから、ほかに任せよう」
と取捨選択していくことが多くなり、じっくり腰を据えて幅広い分野に取り組むことが難しいです。
そうなった今だからこそ、子どもの頃に、
“わからない勉強を理解しようとすることで、積み上げてきた理解力”
があると、より効果的に学べるのかもしれないな…とも感じています。