義祖母の葬儀を執り行った。
大往生といわれる年齢で、穏やかな表情で、
緩やかで温かい悲しみが漂う、見送りだった。
世代は離れているものの、直系の同居家族ということで、
生前から見送りまで、それなりに濃密に関わってきた。
とても迫力のある、元気なおばあさんだったひとは、ちいさな棺におさまった。
立って半畳、寝て一畳という言葉が、脳裏をよぎる。
ひとは、こんなにもちいさくなる。
死者を見送るあいだの意識は、ずっとふわふわしている。
体は忙しく動いているけれど、気持ちの一部は、どこか遠くを漂っている。
読経の旋律は、そんなおぼつかない意識を巻きこみ、さらってゆく。
きれいに残った骨が、かさりと音を立てた。
私は、まだ死ねない。
今は、まだ。
足の指を、ぐっと開く。
地面をとらえて、踏ん張る。
「死ねない」と「生きたい」は、必ずしも同義ではないけれど、
死ねないと思うなら、生きている証を探さなければならない。
自分の足で、大地を踏みしめたいと思って、そうしてみた。
生命の感触が、私の意識を引き戻す。
生きている、と体験することを、やってみる。
またいつか、会う日まで。
終わりかけの蝉の声に包まれた、秋の午後。
ちいさな壺に入った魂のかけらに、そっと訣別した。
