【エッセイ】器の大きさ

カフェで隣り合わせた、二人連れのご婦人。
70代後半ぐらいだろうか。
ゆっくりとパスタやポテトをつまみながら、話に花を咲かせていた。

声高ではないが楽しげな雰囲気から、素敵な女子会なのだろうな、と思う。
私の友人との未来を重ねて、想像してみた。
ちょっぴりおしゃれして、カフェのひとときを楽しむ、おばあちゃまズ。
うん、悪くない。

聞くともなく聞こえてくる会話が、とても新鮮で。
連れあいの孫の可愛がり方の話、息子と相談しているお墓の話。
まだ私がリアルタイムでおしゃべりできない、あれやこれや。

口ぶりから、おそらくは関係に苦労されたのだろう。
今は亡き舅さんや姑さんのことを、必要以上に貶すでもなく、
「今になって考えてみればなあ、あの人もなあ…」
と、ささやかな許容を示して、うなずきあう姿が印象的だった。

結婚して十数年、私にもいろいろある。
そんな中で「あの人の立場になって考えてみれば…」と、一定の理解が及ぶ出来事もある。

だけれども、私が語るのと、ご婦人たちが語るそれとは、確実に違うのだ。

なんと表現したらいいのだろう。
器のあり方が、違うような気がしている。

例えるなら、私の器には、みそ汁が入っているとする。
関係性に苦労のある相手の器には、コーンポタージュが入っている。

私は自分のみそ汁が大事なので、勝手にコーンポタージュに混ざってきてほしくない。
ただ、みそ汁の隣にコーンポタージュの器が並んでいることは、拒否しない。
そんな感じ。

でも件のご婦人方は、自分のみそ汁の中に、コーンポタージュが混ざることを許容しているのだ。
積極的に混ぜはしなくとも、相手が混ぜこんでくるものを、多少なりとも受け入れている。

それでいて、みそ汁とコーンポタージュが完全に混ざることはないぐらい、そもそもの器が大きいのである。
ちょっとぐらい違う味を入れられても、自身のみそ汁のおいしさは、たいして変わらない。
そのぐらい、器のサイズが違うのではないか。

人生経験の差が生む余裕、と言ってしまえばそれまでだけれど。
いつか私も彼女たちのように、大きく構えて話してみたいものだ。

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