天才と言われる人の思考に触れてみたくて、手を伸ばしました。
以前、フェイスブックに挑戦して、「西野亮廣エンタメ研究所」に参加した私。
自分に合う価値観・理解できる物事に共感するのも、楽しい時間なのですが。
いわゆる「天才」と言われる人の、自分とはまったく違う視点や美学を知るおもしろさも、改めて感じています。
実際に私の人生に落とし込めるものもあれば、「ふうん」と眺めるだけのもの、「これは違う」と通りすぎるもの…実にさまざまです。
今までは、自分に理解できる範囲の生き方しか、学んできませんでした。
理由は2つあります。
ひとつは、同調しながら読む方が、楽だし心地よいから。
もうひとつは、違う価値観を語られると、自分が否定されているような気持ちになってしまっていたから。
けれど最近は、いい意味で「私は私」と思えるようになったからか、自分とは違うものを楽しむ余裕が出てきたんです。
世の中に多様な価値観が存在するのは当然で、触れてみるのも耳を塞ぐのも、まったくの自由です。
自分と似たようなものにしか出会わないのはつまらないから、いろんなものを知りたい。
何を人生に採用するかは、また別の問題で、そのときどきの私が決めること。
だから、なおのこと、いろんな考え方を知りたいと思うのです。
そんなわけで、北野武さん。
私にとっては、彼も「共感しにくい天才」でした。
天才だから理解しがたいのであって、すごいなとは思うのだけれど、憧れたり真似たりとは違う種類のすごさ。
実際に読んでみても、「あ、わかる」「なるほど」「これは違うな」が混在していました。
ただ、そこには一貫して「北野武」の美学があり、実に粋です。
北野武がするから格好よくて、私がただ真似てみても、表面的なものでしかないから、ちぐはぐでおかしいだけ。
「天才」が天才たる所以のひとつは、その人が自身と一致した物語を持っていることなのではないか、と思いました。
北野武さんなら「北野武」、西野亮廣さんなら「西野亮廣」という、それぞれのストーリーがあって。
それぞれの美学で首尾一貫して生きているから、物語に破綻がなくて、粋なんです。
北野武さんの思考に初めて触れてみて、持ち上げられないお宝を目の前にした気分でした。
大きすぎて、自分のものにはできないのだけれど、これでもかというほどピカピカに光っているような格好よさ。
本書の中では、「作法の問題」の章が、いちばん好きです。