走るときについて語るときに僕の語ること(村上春樹)

「悔しいとき」に読む処方本

村上さん自身は、この本を「ランニングという行為を軸にした一種の『メモワール』」と述べています。

個人史というほど大層なものでもないが、エッセイというタイトルでくくるには無理がある。

その言葉通り、何の本かと言われると、一言で説明できません。

村上春樹についての本だよ、としか。

読んでいくうちに、書くことと走ることが、どんどん重なっていきます。

長距離走や長編小説のような、「自分自身の設定した基準をクリアできるかできないか」の長期戦に取り組んだことのある人は、絶対に感じたことがあるはず。

基本的なことを言えば、創作者にとって、そのモチベーションは自らの中に静かに確実に存在するものであって、外部にかたちや基準を求めるべきではない。

走り続けるための理由はほんの少ししかないけれど、走るのをやめるための理由なら大型トラックいっぱいぶんはあるからだ。僕らにできるのは、その「ほんの少しの理由」をひとつひとつ大事に磨き続けることだけだ。暇をみつけては、せっせとくまなく磨き続けること。

その結果、「走り終えて自分に誇りが持てるかどうか」が決まるわけです。

でもやっぱり、何といってもかっこいいのは、こちら。

腹が立ったらそのぶん自分にあたればいい。悔しい思いをしたらそのぶん自分を磨けばいい。そう考えて生きてきた。

黙って呑み込めるものは、そっくりそのまま自分の中に呑み込み、それを(できるだけ姿かたちを大きく変えて)小説という容物の中に、物語の一部として放出するようにつとめてきた。

いろんな悔しさを呑み込んで、それさえも創作の基にするような生き方…10代の頃は、村上さんに比べたらささやかすぎるものにせよ、確かに私も持っていたはずなのに。

いつの間にか、自身にとって良い形での放出の方法を、忘れていました。

愚痴とか諦めとかじゃなくて、もっと人生の養分になる形で、悔しさや悲しさ、つらさや怒りとつき合おう。

改めて、気合いが入りました。

村上さんが、墓碑に刻んでほしいという、

少なくとも最後まで歩かなかった

最後まで走り続けるであろう、彼にふさわしい言葉ですね。

私が刻むとしたら、何だろうか。

悔しいときに限らず、生き方を考えさせられる1冊でした。

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