子どもの頃にテレビドラマで見た、職人さんが親方に、
「馬鹿野郎! 仕事は見て覚えろ!」と言われているシーンが、とても嫌いだった。
大きな声と、言葉で訊くのを許されない、張りつめた雰囲気が苦手で、
自分が社会に出るときは、しっかりと言葉で教えてもらえる仕事に就こうと思ったものである。
ひととおりの解説を添えてからの「実際に見てみましょう」「やってみましょう」の形だと、理解しやすくてありがたかったし、
私も後輩にはそのような伝え方を心がけてきた。
子育てもまた然り。
山本五十六の、
「やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてやらねば、人は動かじ。
話し合い、耳を傾け、承認し、任せてやらねば、人は育たず。
やっている、姿を感謝で見守って、信頼せねば、人は実らず」
というやつである。
そんな私が、めずらしく「見て覚えた」ことがある。
それは、卵焼きの作り方だった。
私は卵焼きがうまく作れなかった。
味つけや、調理方法はわかる。
ただ、どうしても綺麗に巻けないのである。
卵焼き器に向かい、ヘラを使って一心不乱に返してゆくと、なんとか形にはなるのだけれど、
気軽にできる料理ではなかったため、あまり作らずにいた。
あるとき、仕事の関係で、卵焼きが得意なおばあさまの料理を見守ることがあった。
使い古され、テフロン加工が剥げたのか、もともと鉄だったのかもわからないような卵焼き器は、
とてもじゃないけれど、私には綺麗に焼けるとは思えない。
しかしおばあさまは、多めの油をよく熱し、卵を必ず3個、砂糖と醤油で味をつけて溶きほぐす。
熱くなったフライパンに、やや多めの卵液をじゅわっと流し入れ、菜箸ひとつでくるくると巻いてゆく。
その鮮やかな手つきに見とれているうちに、ほんの少し焦げ目のついた、つやつやの甘じょっぱい卵焼きができあがる。
何度か見ているうちに、私の目は、火の強さや卵液の量、調理中の音などを覚えたようだった。
ある日、家で卵焼きを作ってみたら、今までの苦労はなんだったのか…と、
拍子抜けするぐらいにすんなりと、菜箸ひとつで綺麗に巻けたのである。
どうやら「見て覚える」には、教わる側の知識や経験が必要らしい。
私は卵焼きのレシピを知っていて、自分でも実際に作っていて、うまくいかない部分があった。
それを元にして見るから、観察眼と解像度が高まる。
そうして初めて「見て覚える」ことができるのだ。
つまり冒頭の「馬鹿野郎! 仕事は見て覚えろ!」は、テレビを見ている私は、その仕事をまったく理解できていないけれども、
叱られている職人さんには、基礎知識はあったということなのだろう。
だからこそ、観察眼が足りなかったり、見る意識が低かったりするのは、教わる側が改めるべき部分となり、このシーンが生まれた。
私は怒鳴り声が苦手なことに変わりはないが、ひとつの場面だけを見て「このやり方は嫌だ」と否定してしまうのは、
自分に進歩がなくなる道でもある、と考えを改めたのである。